昭和40年7月21日 朝の御理解
昨夜、菊栄会で遅くまで皆さん信心の共励をなさいましたが、そのなかで、「おー」、皆さん一遍おりてきてからなんですけれども、また、こんなな話があっております。お通り次をお願いして、祈らせてもらう、お取次ぎを頂いて、信心をさせてもらう。いやあ、祈るということに付きましても、信心させてもらうということに付きましても、お取次ぎを頂いてからの、「おー」、ものでございますから、そこには、形の上には、様々に違ってまいりましても、お取次ぎを頂いて、お取次ぎの働きというものが、この、有ってのことであるということ。お取次ぎの働きを頂いてのことである。そして、内容は、右になっておったり、左になっておったりするのであるけれども、そこんところを確信させていただくのが、御道の信心をいただいておるものの、信心の姿勢とでもいうのでしょうかね、でなからなければならない。そこんところを、お互い確信が出来る、勿論それは、お取次ぎを頂いてのことではあるからという、それだけではいかん、そのことによって様々に分らせてもらい、または、改めさせてもらわんといかんけれども、お取次ぎの働きというものは、このう、お願いをしたからには、その、おかげのことにしか動いてはいないということ。ま、例えていうなら、昨日、久富重雄さんがお見えておられましたんですけど、その時、ほんとに私共は、この御造営が始まってこの方というものは、おそらく、「うー」、土居地区だけではない、「私ぐらい現在野菜を、最高の値段でお繰り合わせ頂いてるものはなかろう」と、こう言うとられます。話を聞いてみればもう実に、「えー」、ほんとにお繰り合わせの中におかげを頂いておられます。親子のものが、そのことを、親子というより一家中のものが、そのことを話し合って、まあ、明日のことに協力させていただいておるのです。昨夜も、ちょうどもう、参って見えましてから、前の日に、どこどこ市場にお野菜を出させてもらいますから、どうぞ、三時半ぐらいには、目覚ましのおかげを頂きますようにとの、お願いがしてあった。ところが、どっこい目を覚ましたときにはもう、五時である。まあ、その市場に行っては間に合わんというので、それで他の市場にやらせて頂いたところが、その遅くしていったそこが、最高の値段で買うてもらえるというようなお繰り合わせを頂きましたと言うて、これはまあ、息子さんの(くるめ)さんが、その御届けをしております。「ね」、重雄さんをして言わせておるようにです、私共、御造営が始まってこの方、おそらく土居だけではない、「ね」、一遍、二編なら兎も角も、ずーっとです。もう本当に、こんなにと、言うとられました。こんなにお金をもろうて帰っても良かろうかというようにあの、最高のおかげを頂いておるということ。「ね」。そして、それもお取次ぎのお働きなんです。また、ある総代さん、昨日、お届けされるのに、先生、御造営始まってこっち、もう、椛目では、指折りのまあ、言うなら財産家だ、ち。その方が言われるのに、昨日です、ほんとに、私ども何にも出来ませんから、今度の御造営にあたってはです、金銭のお繰り合わせを頂いて、おくりあわせいただくというよりも、もう、財産はあるんです。大きな商売をなさっておられますし。ところが、この方、もう、「小遣いにさえ不自由いたします」と、こういう。で、私は、申しました。もう、この人にお金持たしたら、ガバガバお供えするけんで、神様が、「それではあんまり興がなさ過ぎる。」「ね」。少しは金の有り難さを分らしていただいて、なるほど神様のおかげで、お供えをさせて頂くもんだなあという事を、分らして頂く為に違いないねといって話したことでした。どうでしょう。「ね」、私は、ほんなら、久富重雄さんとこが財産がないという訳じゃないですけれども、けれどもその、片一方はお取次ぎを頂いてお願いされて、一日です、最高のおかげであろうというおかげを、蒙っておると、こう言われる。同じ総代さんで、片一方のほうはです、こっちは、財産家なんです。どっちも財産家(笑い)なんですけど。特に大きく商売して、普通だったら大きく金が動いておるお家なんです。ところが、お供えさせていただこうと、それからこっちというものはですね、例えば、先日から、娘達、子供達夫婦が福岡へ、いうなら遊びに行くと。それで、お小遣いちょっとまあ、持たしてやろうと、こう持たしてやらんならん具合に、最近では、乾いておると。ガツガツであると。ほんとに、どうしたことだろうかと。私共は、内々話しておる。ほんとに、今度の御造営に、この時にお役に立たなきゃ何時立つかと。というて、同じこと。内容は同じです。重雄さんのお宅でも、○○という総代さんのお宅でも、理屈はおな~じ事なんです。ですから神様がただ、お供えさしたいばっかりならばです、どちらにも、一様にお分け下さるのだろうけれども、内容は違うでしょう。御願いをして、お取次ぎを頂いて、「ね」、片一方は、御造営が始まってこの方、おかげをいただ、いわゆるその、こんなに沢山お金を頂いて帰ってよかろうかというほどに、そのおかげを頂いておる。片一方は、この方、小遣いにも不自由しておると(笑い)こういうのである。けれどもその、神様の働きそのものは、おんなじことだということ。わたしは、以前その方に申しましたように、この人は金さえもたせりゃ、ガバガバ御造営費、御造営費というて、お供えするに違いないから、神様がね、そげな気やすう、御造営のというようなものは、有ってはならない。「ね」。なるほど有り金を持ってくるようなことではいけん。お金にも十分不自由させて、「ね」、そして、なるほど神様のおかげを頂かなければ、お供え一つが出来ない。神様のおかげでお供えが出来たということを、分らせて下さる為じゃろうね、というて御話しさせて頂いた。「ね」。
おかげをお供えさせて頂く事だから、神様が喜んで下さることだから、御願いをした、お取次ぎを頂いた。「ね」。
昨日、一昨日、一昨昨日からか、いま、久留米の八次(やつぎ)さん、親子三人連れで、毎日、家族上げて皆で参って見えるわけなんです。朝は、お母さんが参ってくる。よるは、お父さんと息子と参ってくる。いわば、商売人のことですから、毎日毎日いわば、手形で追われるようにあるけれども、毎日毎日、日々のお繰り合わせ頂いておる。ところが、今度んとだけはいっちょ、おとうさんが、自分がその神様に御願いせにゃ出来んような、大きな手形であった。それも、日々のんではなくてから、特別のいわば、支払いせにゃならん、これだけはもう、どうでも出来ない、目当てがないという訳なんです。
昨日でした、一昨日でしたかしら、昨日でした。御願いをさせて頂いてから、あー、店のほうだけでは出来んから、あっちにも借りに行き、こちらにも、親戚の方にも行ったけど、ちょっと都合が出来ないと言うた。「先生、どうもこうもいきまっせん」ち。日に二辺づつも参って来らっしゃる。こりゃもう、家内だけの御願いじゃいかんと思わっしゃったんですね。で、昨夜、参ってきてから、昨日が期日だって。「もう、先生、ギリギリになってからお繰り合わせ頂いてから、おかげ頂きました」ち、いうてから昨日お礼に見えられた。なんかと言うと、そのことで御造営という訳でもない。やはり、自分の店の金銭のお繰り合わせである。しかも、( ? )けれども、これを特別に受けなけねばならないという時にはです。で、私は、昨日の晩ですたい。いえ、昨日、一昨日でした。八次さんて。最近私が言うとろがて。このね、心ば撫でるということ。ちょっと帰りがけ、ちょっと思い出したけんで、八次さんて、おらんだら、「はい、なんですか」ち、いうて。あの、こりば、しっかり撫でとかんとち。「ネ」。こりを撫でる。おかげを頂くということは、ま、病気だけのことじゃなか。人間関係のことでもなか。金銭のお繰り合わせでも同じことだから、しっかり心ば撫でなきゃ駄目よちいうて、「はい」ち、言うてから、やっとしっかり撫でられたに違いない。「ね」。
御取次ぎ頂いてもその、働きというものがです。「ね」、たとえば、ほなら、御造営なら、御造営だからあながち、神様が喜んで下さることであるから、とんとん拍子におかげを頂くということには限ってはいないと。どんなに考えてもです。もう、御造営始まって何ヶ月間、久富さんのお宅に現れて居るようにです。「ね」。そういうような( ? )いわば、お繰り合わせを頂いておられる。○○総代さんのお宅のようにです、「ね」、もう、ほんとに、そう思うておられる方なんです、この方は。「ね」。もう、他では御用は出来んから。「ね」、もう、これで持ってち。自分方にあるもんじゃから。お金が。「ね」。金銭のお繰り合わせ、しかも、昨日もそれをいうて居られますように、「ね」。この、御造営のときに頂かんなら、何時頂くかというて、御願いさせて頂いているにもかかわらず、それを依頼というのは、小遣いにも不自由するぐらいにです。「ね」、そりゃもう、小遣いに不自由するというても、いうなら、ちょっと持っておられる家ですから、どうってことはないですけれども、「ね」、とにかくまあ、小遣いに不自由するように、金銭のお繰り合わせが頂けないとこういう訳。「ね」。おんなじことのごたるけれども、これは、私の推察なんです。「ね」。はいるもんばこうやって持ってくる。お供えさせてもらう、ここで御用させてもらわにゃ、御用させてもらうことはないから、御用させてもらうんだけれども、それでは、あんまり興がなさ過ぎる。興がなさ過ぎるというと面白半分のごたるばってん、それでは、折角のお供えを、神様が、「ね」、例えば、徳をして下さるごたることはでけん。そこで、この人にお金の自由を与えたら、それこそ、ガバガバお供えするだろうから、それでは、本当のおかげじゃないから、わざわざ神様が窮屈な思いさせてござるだろう、そしてはじめて、なるほど一心におすがりさせて頂いて、おかげを頂けねばならない、日ごろ金銭のお繰り合わせ頂きすぎるぐらい頂いておるけれども、総代としてのおかげを頂いておるということを分らしてもらい、「ね」。おかげをいただかなければ、お許しを戴かなければ、んなら、お供え一つが出けないんであるということを、分からして頂くということだろうねと、こう私はそりゃもう、私の推察で、そう申しましたけれど、だって私はもう、他にも色々ご都合があるでしょうもん。「ね」。そこにはです、例えば、八次さんには、そういうことじゃないけれども、本気で、いっちょう張り込まんならんということもあるでしょう。自分の腹が、本気でいっちょう、自分の心というものを見極めなければならないということもあるでしょう。「ね」、そういうようなお話をさせて頂いた後にです、御造営の事に当たっては、そこに行き当たり、ここに行き当たり、御造営、段々、おかげ頂いてからもう、もう、大工さんが乗り込んできておる。大工小屋が建っておる。経って居るらしいです、もうねえ。ま、そういうようなことで、その、建築のことについても、これは、グズグズしよったら間に合わんから、はよ、ここば、検討して、ここもはよう決めないといけないという問題があるから、そこを、淡々としてるごたるけれども、一生懸命、そのそこを二、三日、掛かり切って、そのことを研究しよる、人達もある。「ね」、それで私、それを申しましたんですけどもです、今、椛目で御造営が始まってこっち、総代さんがたが、ほとんど全員、「ね」、10人近くの方達がです、毎日、朝、夜、自由に参って見える。そして、総代さん方が、一同になって、一団になって椛目全体のことの、おかげを、お繰り合わせを願うておられる。特に、御造営にあたっては、どうぞ万事にスムーズにお繰り合わせ頂きますようにというのが、日々、ここでお取次ぎを願うて、おかげを願うておられる。いうならば、椛目の総代さん方は、そういう上においても、御造営の中心になるところの、いわゆる、お祈り係である、御祈念係である。そういういわば、真心の祈りがあって居るからにはです、そういう祈りがあって居るのであるからです。「ね」、祈りがあって居るからこそ、右になったり、左になったりしているんだということなんです。
今日、菊栄会の人方にそのことを話したんです。貴方どんは、そういう意味合いにおいてから、総代達に感謝せんならんよち、私が申しました。「ね」、普通では出来ない信心をです、総代さん達がおって、一団になって、そのことだけに、焦点をおいての、お取次ぎを日々、頂いておるといわれる。だから、ことが、赤になろうが、白になろうが、「ね」、赤になることもそういう祈りの中にあることであり、白になることもそういう意味合いにおいて神様の働きを戴いているのであるから、その証拠には、例えばほんなら、全体的に見てみなさいと。これはどうしようかと、困っておることがです、「ね」、、返ってそれが、段々おかげになって行って、こういうスッキリしたことになって行きよるから、そのようなことにおいてすら、理屈は同じことだと。御道の信心さして頂いたら、お取次ぎを戴いたその上までです、心配しておったら、私は、御道の信心の値打ちは無いと思う。「ね」、どうぞこのことについて、よろしく御願い致しますと、お願いしたら最後、右になろうが、左になろうがです。神様のお働きを十分に頂いておるからこそ、重雄さんところの例であり、○○総代さんところのような例であるようなものなんです。お取次ぎを頂いておるからこそ、片一方は、金銭のお繰り合わせ頂いているのであり、片一方は、金銭のお繰り合わせを頂けんのである。同じことなんです。「ね」、そのくらいのものをです、そのくらいなことを、私は、確信出けて初めてです、お取次ぎを頂いておるから安心ということにもなりゃ、お取次ぎを戴いて、信心を分からしていただかにゃならんという事にもなってくる。「ね」、そうでしょうが。そこん中、総代さんたちの立場になってみると。「ね」。こうやって、一丸になって御願いさせて頂きよるのに、難儀なことが起こってきたと。だから、これは、お取次ぎ受けていきよるのであるから、神様のご都合に違いがないと。神様のお裁きに違いがないと。という、一つの安心と同時にです、お取次ぎ頂いてからのことであるから、例えば、お金を、(のぐち?)さんがたがです、ちょっと困ったことですねえと、どうしましょうかと。例えば、(すえむら?)さんたちに、相談をするような場合でもです、「ね」、いちいち親先生にお取次ぎ頂いて、こうやって御願いさせて頂いているのであるから、そりゃ、おかげですがと。と、言えれる総代さん達、言えれる私は、信心をいただかにゃいけないということ。それは、あれのせいじゃなかろうか、これのせいじゃなかろうか、と、心配したりせずにです。「ね」、日々、こうやってお取次ぎ、御願いをさせて頂いてのことであるから、そら、おかげのものしかなりませんがと。というだけに私は、確信を持っての、日々のお取次ぎを願うのであり、信心でなからなければならないのであると思うのです。有難うございました。